踊る魔法使い 

屋根の上 002

猛暑日が続く。
やっとこの暑さの連続に慣れてきたが、7月に入ってから体調がくずれてしまった。
ひと昔は35度以上の猛暑は、8月の初めの一週間くらいなものだった。この頃はこの期間が長い。
 
倉庫型リサイクルショップにとっては夏の暑さは最大の難関である。
当店の対処は5台の扇風機だ。
今どき扇風機?というなかれ。
 
なんせ天井がない。屋根も外壁もスレートだ。エアコンは効かない。
だからエアコンは小部屋に囲ってある事務所にしかつけていない。
店内の4ヶ所の窓を開け、それぞれ扇風機を回す。
大きな軒になっている正面入り口には、径の大きい工業用扇風機で新鮮な空気とお客さんの背中を押している。
 
お客さんは快適な環境でないと来てくれないし、来店しても極端に
滞店時間が短くなる。夏は冬より厳しい。
スレート倉庫は天気予報の気温が35度だと、熱がこもり倉庫内は40度くらいになってしまう。
こうなると、熱気でむっとなり買い物どころではない。身の危険さえ感じる。
 
数年前まで、こんな光景も見た。
そのお客さんは一歩、店内に入るなり立ち止まった。
むっとした表情になり、あたりを見渡し
 「・・・・・・・・・・」
無言できびすを返した。そしてそのまま店を出て行ってしまった。
おいおい、何しに来たんだよ、と思ったがこの暑さでは無理もない。
この暑さ・不快感、何とかならないかと考えた。
いろいろ試してみた。
大きなコストはかけられない。
そしてついにある装置を取り付けることによって、大幅に改善することに成功した。
 
それは、屋根の上に水を撒くスプリンクラーだ。
これも最初は塩ビパイプで水道水をあげ、屋根の背に横に敷いた塩ビパイプに細かい穴をいっぱい開けた。
 
そこから水が流れ出ることによって、屋根を濡らす。
屋根を濡らすと気化熱で店内上部の熱の急な上昇を抑える。
そんな狙いだったのだが、実際にやってみると横パイプに開けた穴すべてからは水は出なかった。水圧が足らないのか。
 
しかも、横パイプの穴から出る水は屋根のスレートの波形の谷にしか流れていかない。
思ったほどの効果はなかった。

屋根の上 005 

そして登場したのが、写真のスプリンクラーだ。
これが何ともかわいい(?)魔法使いがほうきにのっかっている。
これを下の水道の蛇口からホースでつなぐ。けっこう長い。
水道の水圧だけでスプリンクラーの上部が回るだろうか。
そんな危惧を抱きながら、蛇口をひねる。
なんと水道の水圧だけで水は垂直のホースを上り、「屋根の
上の魔法使い」がくるくると回りだした。
回ることにより、シャワー状の水が広範囲に飛び散るのだ。
屋根の上に同じスプリンクラー2台を取り付けた。
2台で屋根全体の三分の二を濡らすことができた。
水道代が余分にかかるが、ポンプも使わないので電気代は要らない。水の節約も考慮して、一番効果的な頻度は20分おきに放水と止水を繰り返すこともわかってきた。
接客や商談もあるので、時間は厳密には難しい。それは適当でいい。
さて、効果であるが、なかなかいいのである。
エアコンのように冷気を作り出すわけではないので暑いことは暑いが、むっとした不快感はほとんどなくなった。
35度くらいまでは、扇風機との併用でしのげそうだ。
近くの町工場で働く常連さんは、ある暑い日、来店するなりこう言った。
 「あれ、同じようなつくりなのに、ここは何か涼しいなあ・・・」
してやったりである。
その「屋根の上の魔法使い」も三回目の夏を迎えた。
今年もすでに大活躍である。
皆様がリサイクルショップを訪れたら、駐車場から屋根をごらんになるといい。
そこに二人の魔法使いが踊っていたら、そのリサイクルショップは

当「笑えるリサイクルショップ」だ。


さきたま古墳群を歩く(最終回) 

08.6sakitama 014

さきたま古墳群のある行田市は、東京からそんなに遠くないのに鄙びた印象だ。
秩父鉄道は列車自体もホームや駅舎も昭和の雰囲気が漂う。
古墳群の近くに、映画「三丁目の夕日」に出てくるような食堂があった。ガラスの引戸を開けて中に入ると、花柄のデコラ張りの天板に丸パイプの脚のテーブルが三卓。戦後の昭和の雰囲気である。
応じてくれたのも80歳に近そうなご夫婦だった。
そこで名物らしい「フライ」というものを食べてみた。
フライといっても揚げてあるわけではない。
ふくらみのない薄いお好み焼きとか韓国のちぢみとかの類である。
おやつ的な存在か。昔の懐かしい味がした。
「三丁目の夕日」的な食堂にはイメージがよく合う食べ物かな。
行田市にはもう一つ発見があった。
かつて足袋(たび)の一大産業があったことだ。
これは忍城址・郷土博物館に立ち寄って知った。
足袋のブランドのラベルが壁に一杯陳列展示してある。まるでワインのラベルを並べてあるようだ。足袋の製造機械やら賑わう街の様子の写真やらが、当時の隆盛ぶりを伝えていた。
 
「時代の変化」をまともにくらって消えていった産業の一つである。
さて、大和政権をしのぐ「日本王国」が関東に存在したか、である。
やはり、テレビ特有のセンセーショナルな取り上げ方が先行していると感じせざるをえない。
地元ではそんな取り上げ方に特に反応はせず、地道にこつこつと古代の文化を調査・保護していこうとしている。好感をいだく。
 
さきたま古墳群を一日歩いただけで、推論してしまうという素人の暴挙をお許しいただきたい。
 
大和政権以前から、ここらあたりを相当な力を持った勢力があったことは間違いない。それは敵対したり独立したりしていたわけではなく、ある時期、大和政権の傘下に下ったのだろう。
 
そして、大和政権の中枢にいた人物がこのエリアの支配に介入し、地元権力者と手を組んだ。それは軍事、文化、経済を合わせた併合である。政略結婚もあったろう。
 
大型古墳を造ることを許された関東一円の勢力は、中央政権とかなり密接だったことをしめしているのではないか。
近畿エリアで大型古墳が盛んに造られた時期と幾分あとにずれていることにも何か意味がある。
テレビがいう日本(ひのもと)王国は、中国の史書「旧唐書倭国日本伝」からの引用らしいが、日がいずる国ということで関東にあるとしている。
これには疑問をもつ。

それは、のちに大和政権を築いた勢力が九州方面から東征した時、上陸をはばんだ近畿エリアの先住勢力のことではないか。

 
古事記にもそのあたりのことが出てくる。抵抗が強く直接上陸できないために、海路を迂回し熊野から上陸。山中を北上し近畿エリアの制圧に成功するのである。
 
九州方面から見れば、近畿エリアも東の日の本(もと)である。
それにしても歴史に触れれば触れるほど、古代人の行動範囲が現代人の思っている以上に広いことと、物・情報の伝播の早さに驚かされる。
 
支配下勢力の上層部が中央と行き来するのはもちろん、関東勢力の武人が大和政権の命令で、守護のため九州まで赴いている。
鉄道も車のない時代に、である。家族とは一生の別れとなった者もいたに違いない。
 
残された遺跡や史料はあくまで点にすぎない。
しかも記される記録は勝者の都合のよいように残されることが多い。
勝者がいればその相手の敗者もいるわけで、その敗者もわずかな痕跡を残す。私はこちらも無視してはならないと思うのだ。

 

人間の歴史とは「権力争いの歴史」であるといった人がいる。
その争いの背景には人間の欲望や憎愛が渦巻いている。
延々と営んできた人間のドラマがある。
歴史の点が線になり面になり、さらに立体になるには想像力もいる。時代が古くなればなるほど、物的証拠は少なくなる。
「邪馬台国論争」のようにいろいろな方が様ざまに主張される。

これが面白くて「歴史好き」をやめられないのである。

さきたま古墳群を歩く(3) 

08.6sakitama 057

もう一つの国宝、「神獣鏡」もゆっくり見ることができた。
雨が止まないせいか、来館者が少ない。
ここの博物館は居心地がよいので、長居してしまう。
この鏡のフルネームは、
「画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)」という。
長ったらしい名前だが、考古学の出土品の名前としては普通である。
これは見たままを漢字で表現しているだけで、漢字の羅列にひるまず読めばなんとなく意味はわかる。
古代人の人名のように、読めない「漢字酔い」みたいなことはない。
読めない文字は確かにストレスになる。
二泊三日の韓国ツアーで「ハングル文字酔い」にあったことがある。
周囲のあちこちに目に入る文字が読めないと、頭がくらくらして何となく気持ちが悪くなるのだ。
アルファベットを使う諸国ではなかった経験である。
 
この神獣鏡は同タイプのものが全国の六ヶ所から出土しているという。九州では福岡と宮崎、中部で三重、関東では群馬と千葉、それとここの埼玉である。
 
当時の銅鏡がかなり重要なアイテムであることはわかっている。
博物館の説明では、大和政権の傘下に下り軍人や文官として仕え、その功績により大和政権から与えられたものであろうという。
次の部屋では、「自分で勾玉をつくろう」という教室があった。
勾玉(まがたま)は魔除けと幸運を呼ぶという古代の装飾品である。
縄文の頃からあり、滑石やヒスイ、水晶などの材質のものがある。
この教室ではやはり学芸員のOBの人が指導してくれる。
1時間ほどでできるというので、チャレンジしてみた。
ここではペーパーやすりで削れてしまう非常に柔らかい滑石でつくる。長方体の滑石とペーパーやすりがセットになっていて200円。
まず大雑把に長方体の角をざくざくとやすりで削る。
丸くくぼんだ所も棒やすりでぐいぐいと削る。
作業台にすわってせっせと石を削っていると、背後にざわざわと何人かの気配がし、その一人が声をかけた。
 
 「あら、何をやっているんですか?」
と私の背中ごしに手許をのぞく。
私の目の前にいた指導員が代わりに応えた。
 「勾玉を作っているんですよ」
 「あなた方もいかがですか、1時間くらいでできますよ」
 「へええ、面白そうね・・・」
 「1時間?そんな時間はないわ・・・・」

五、六人のおばさんグループはどどどっと来て、ささっと去っていった。再び静寂が戻った。

その後、荒目、中目、細目とペーパーやすりでこすり磨く。
だんだん勾玉の形ができて来る。
小さなこすりキズがなくなった頃、水で洗いさらに細かい仕上げ磨きをする。すると表面がつるつるのピカピカとなった。
 
それが、冒頭の写真の勾玉である。
それにしても、勾玉って変な形だなあ。
人はなんでこんな形を愛でたのだろうか。
後の時代の文様として「三つ巴(みつどもえ)」などの巴の原型ともいわれている。
 
もう一つ私が頭に浮かべたのは、ペーズリー柄だ。
これも勾玉の形ではないか。
ちょっと調べてみた。意外なことを知った。
ペーズリー柄は西洋の文様だと思っていたら、なんとインドのカシミール地方のショールのパターンが起源だという。
 
へえ、やはり勾玉とペーズリーとは何か関係があるのではないか。

もちろん、博物館の史料解説にその関係の言及はない。

 

申し訳ないが、もう一回だけ、続く。