さきたま古墳群を歩く(最終回) 

08.6sakitama 014

さきたま古墳群のある行田市は、東京からそんなに遠くないのに鄙びた印象だ。
秩父鉄道は列車自体もホームや駅舎も昭和の雰囲気が漂う。
古墳群の近くに、映画「三丁目の夕日」に出てくるような食堂があった。ガラスの引戸を開けて中に入ると、花柄のデコラ張りの天板に丸パイプの脚のテーブルが三卓。戦後の昭和の雰囲気である。
応じてくれたのも80歳に近そうなご夫婦だった。
そこで名物らしい「フライ」というものを食べてみた。
フライといっても揚げてあるわけではない。
ふくらみのない薄いお好み焼きとか韓国のちぢみとかの類である。
おやつ的な存在か。昔の懐かしい味がした。
「三丁目の夕日」的な食堂にはイメージがよく合う食べ物かな。
行田市にはもう一つ発見があった。
かつて足袋(たび)の一大産業があったことだ。
これは忍城址・郷土博物館に立ち寄って知った。
足袋のブランドのラベルが壁に一杯陳列展示してある。まるでワインのラベルを並べてあるようだ。足袋の製造機械やら賑わう街の様子の写真やらが、当時の隆盛ぶりを伝えていた。
 
「時代の変化」をまともにくらって消えていった産業の一つである。
さて、大和政権をしのぐ「日本王国」が関東に存在したか、である。
やはり、テレビ特有のセンセーショナルな取り上げ方が先行していると感じせざるをえない。
地元ではそんな取り上げ方に特に反応はせず、地道にこつこつと古代の文化を調査・保護していこうとしている。好感をいだく。
 
さきたま古墳群を一日歩いただけで、推論してしまうという素人の暴挙をお許しいただきたい。
 
大和政権以前から、ここらあたりを相当な力を持った勢力があったことは間違いない。それは敵対したり独立したりしていたわけではなく、ある時期、大和政権の傘下に下ったのだろう。
 
そして、大和政権の中枢にいた人物がこのエリアの支配に介入し、地元権力者と手を組んだ。それは軍事、文化、経済を合わせた併合である。政略結婚もあったろう。
 
大型古墳を造ることを許された関東一円の勢力は、中央政権とかなり密接だったことをしめしているのではないか。
近畿エリアで大型古墳が盛んに造られた時期と幾分あとにずれていることにも何か意味がある。
テレビがいう日本(ひのもと)王国は、中国の史書「旧唐書倭国日本伝」からの引用らしいが、日がいずる国ということで関東にあるとしている。
これには疑問をもつ。

それは、のちに大和政権を築いた勢力が九州方面から東征した時、上陸をはばんだ近畿エリアの先住勢力のことではないか。

 
古事記にもそのあたりのことが出てくる。抵抗が強く直接上陸できないために、海路を迂回し熊野から上陸。山中を北上し近畿エリアの制圧に成功するのである。
 
九州方面から見れば、近畿エリアも東の日の本(もと)である。
それにしても歴史に触れれば触れるほど、古代人の行動範囲が現代人の思っている以上に広いことと、物・情報の伝播の早さに驚かされる。
 
支配下勢力の上層部が中央と行き来するのはもちろん、関東勢力の武人が大和政権の命令で、守護のため九州まで赴いている。
鉄道も車のない時代に、である。家族とは一生の別れとなった者もいたに違いない。
 
残された遺跡や史料はあくまで点にすぎない。
しかも記される記録は勝者の都合のよいように残されることが多い。
勝者がいればその相手の敗者もいるわけで、その敗者もわずかな痕跡を残す。私はこちらも無視してはならないと思うのだ。

 

人間の歴史とは「権力争いの歴史」であるといった人がいる。
その争いの背景には人間の欲望や憎愛が渦巻いている。
延々と営んできた人間のドラマがある。
歴史の点が線になり面になり、さらに立体になるには想像力もいる。時代が古くなればなるほど、物的証拠は少なくなる。
「邪馬台国論争」のようにいろいろな方が様ざまに主張される。

これが面白くて「歴史好き」をやめられないのである。

さきたま古墳群を歩く(3) 

08.6sakitama 057

もう一つの国宝、「神獣鏡」もゆっくり見ることができた。
雨が止まないせいか、来館者が少ない。
ここの博物館は居心地がよいので、長居してしまう。
この鏡のフルネームは、
「画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)」という。
長ったらしい名前だが、考古学の出土品の名前としては普通である。
これは見たままを漢字で表現しているだけで、漢字の羅列にひるまず読めばなんとなく意味はわかる。
古代人の人名のように、読めない「漢字酔い」みたいなことはない。
読めない文字は確かにストレスになる。
二泊三日の韓国ツアーで「ハングル文字酔い」にあったことがある。
周囲のあちこちに目に入る文字が読めないと、頭がくらくらして何となく気持ちが悪くなるのだ。
アルファベットを使う諸国ではなかった経験である。
 
この神獣鏡は同タイプのものが全国の六ヶ所から出土しているという。九州では福岡と宮崎、中部で三重、関東では群馬と千葉、それとここの埼玉である。
 
当時の銅鏡がかなり重要なアイテムであることはわかっている。
博物館の説明では、大和政権の傘下に下り軍人や文官として仕え、その功績により大和政権から与えられたものであろうという。
次の部屋では、「自分で勾玉をつくろう」という教室があった。
勾玉(まがたま)は魔除けと幸運を呼ぶという古代の装飾品である。
縄文の頃からあり、滑石やヒスイ、水晶などの材質のものがある。
この教室ではやはり学芸員のOBの人が指導してくれる。
1時間ほどでできるというので、チャレンジしてみた。
ここではペーパーやすりで削れてしまう非常に柔らかい滑石でつくる。長方体の滑石とペーパーやすりがセットになっていて200円。
まず大雑把に長方体の角をざくざくとやすりで削る。
丸くくぼんだ所も棒やすりでぐいぐいと削る。
作業台にすわってせっせと石を削っていると、背後にざわざわと何人かの気配がし、その一人が声をかけた。
 
 「あら、何をやっているんですか?」
と私の背中ごしに手許をのぞく。
私の目の前にいた指導員が代わりに応えた。
 「勾玉を作っているんですよ」
 「あなた方もいかがですか、1時間くらいでできますよ」
 「へええ、面白そうね・・・」
 「1時間?そんな時間はないわ・・・・」

五、六人のおばさんグループはどどどっと来て、ささっと去っていった。再び静寂が戻った。

その後、荒目、中目、細目とペーパーやすりでこすり磨く。
だんだん勾玉の形ができて来る。
小さなこすりキズがなくなった頃、水で洗いさらに細かい仕上げ磨きをする。すると表面がつるつるのピカピカとなった。
 
それが、冒頭の写真の勾玉である。
それにしても、勾玉って変な形だなあ。
人はなんでこんな形を愛でたのだろうか。
後の時代の文様として「三つ巴(みつどもえ)」などの巴の原型ともいわれている。
 
もう一つ私が頭に浮かべたのは、ペーズリー柄だ。
これも勾玉の形ではないか。
ちょっと調べてみた。意外なことを知った。
ペーズリー柄は西洋の文様だと思っていたら、なんとインドのカシミール地方のショールのパターンが起源だという。
 
へえ、やはり勾玉とペーズリーとは何か関係があるのではないか。

もちろん、博物館の史料解説にその関係の言及はない。

 

申し訳ないが、もう一回だけ、続く。


さきたま古墳群を歩く(2) 

08.6sakitama 010

「さきたま史跡の博物館」は瓦塚古墳の脇にあった。
まずは古墳群の全体像を描く15分くらいのDVDを見る。
さっき歩いて回ったエリアが空から写し出される。空からだと前方後円墳の形がきれいに見える。これだけの大きな古墳だ、相当な権力者のお墓と思われる。
 
博物館はこじんまりとはしていたが、きれいに整備されていた。

出土したはにわがたくさんガラスケースの中に陳列されている。

そして国宝「金錯銘(きんさくめい)鉄剣」に近づき凝視する。
5世紀頃に作られたものという。
古代が現代の空間に存在している不思議。わくわくする。
この鉄剣が注目を浴びてきたのは115の文字が刻まれていることだ。
その銘文は簡単にいうと、
「ワカタケル大王(雄略天皇か)に仕えてきた先祖代々親衛隊長である私は大王が天下を治めるのお助けした由緒を記す」
と書いてあるらしい。
 
すべて漢字であるし、長々と書かれた八代の系譜の名前が見事にわかりにくい。
人の名前にも必ず意味があると思うが、古代人の名前は全て当て字でその文字からは意味は読み取れない。
その一人の名前を書くと「多加披次獲居(たかひしわけ)」。
他の名前も現代人から見ると変てこな名前ばかりである。
ひょっとしたら、人名の変遷と時代の歴史的変化は関係があるのではないか。そんな研究をしている人もいるかも知れない。
 
ボランティアのおじさんの説明に興味深いことがあった。
 「ここの稲荷山古墳で、鉄剣の持ち主と思われる人物が他の副  
  葬品に囲まれて埋葬されていたんですが・・・・」
 「その場所は古墳の中心ではなく、中心を外れた所からでした」
この稲荷山古墳のぬしは鉄剣の人物ではなく別にいるというのである。ここに眠る方はどんな人物だろうか。
大和政権との関係はどうなのか。
 「その人物はわかっているのですか・・・」
 「いいえ、今のところ全くわかっていません」
 「埋葬者の特定されているものは全国にもまだないんですよ」
近畿地方の有名古墳の主もほとんど推定の域から出ていないと言う。
 「えっ、ほんと。堺の仁徳天皇陵は?」
 「ずっと、そういわれてきましたが、考古学的には確定していませ

  ん」

そういえば、仁徳天皇陵は最近は大仙古墳と表記されることが多い。
考古学も新しい発見があったりいろいろ伸展をみせているのに、古墳に誰が埋葬されているかに関してはなぜか歯切れが悪い。
 
学芸員のOBらしき方はこう続けた。
 「いやあ、最近はなかなか掘らしてくれないんですよ」
 「発掘すれば、有力な史料はかなりでるはずですが・・・・」
素人の私は質問に遠慮を知らない。
 「天皇の墓といわれている古墳は、宮内庁なんかの圧力ですか」
その方は、それには答えず、
 「重要な文化財は保護する必要もありますし、・・・」
 「まあ、遺跡を破壊せずに発掘する技術ができたら、話は変わっ
  てくるんですがねえ・・・」
古墳は死者を祀ってある神聖な場所であるが、心ない者の副葬品をねらった盗掘もあろう。
知らない間に道路になってしまったり削られていたりして、長い間にはいろいろあるようである

さきたまの丸墓山古墳は、戦国時代には石田三成の本陣としても

利用されたという。
無礼者!であるが、その「今」に生きるものにとっては古墳とはそん
なものである。
遺跡を後世に残していくことは大変なことである。
現在、さきたま古墳群の整備・管理はよくなされていると思う。
歴史ファンとしては、保護と同時に「丁寧な発掘」で新たな発見を期待したいところである。

さらに次回に続く。





さきたま古墳群を歩く(1) 

08.6sakitama 035

埼玉県のさきたま古墳群に行ってきた。

このさきたま古墳群の一つ、稲荷山古墳から金文字が象嵌された鉄剣

が出土して30年以上が経つ。新聞などで大きく報道され、それ以来私は

関心をいだいていた。

近畿地方を中心に散在する多くの歴史的遺跡は比較的なじみがある。
しかし、関東にこれだけ大規模な古墳群があることは知らなかった。
一度は見ておきたいという想いを持ちながら、日常の忙しさにそれを忘

れていった。

最近、TVで「日本史ミステリー」という番組があった。見た方も多いだろ
う。「大和政権をしのぐ日本王国が関東にあった」というテレビ番組らし
い非常に刺激的なタイトルである。なるほど、こんな見方もあったか。
私の潜在していた関心を強く喚起したのが、この番組だった。
東京までは縁があり大体はわかるのだが、その向こうとなると途端に地
理があやふやとなる。しかし、地図が一枚あればどこにでも行ける。
私がmapと呼ばれる所以でもある。
 
その日は一日雨であった。
ほとんどひと気のない静かな古墳群を歩く。長さが100m前後の古墳が
9基ある。待望の地に来れた喜びと古墳の持つ気味の悪さが交差する。
丸墓山古墳から稲荷山古墳に向かう時、すこし向こうに東屋があった。
そこに白い人の影がちらちら見えた。側に柳の枝が風に揺れている。
周りに人ひとりっ子いない。古代人の幽霊か・・・・。
ゆっくりと近づく。
白い雨合羽を着た警官だった。脇に自転車があった。
私から声をかけた。
 「こんにちは。今日は少し寒いですねえ、6月だというのに・・・」
 「こんなところで何をしているのですか」
警官に尋問(?)してしまった。
 「いやあ、何ね、ここのパトロールを。今はちょっと時間調整・・・」
辺り一帯、古代の霊気を感じる。・・・というのは嘘である。しかし、

咲き始めた蓮の花と静けさがそう思わせるのに充分である。

今では天気のよい土日などは、家族連れなどが遊びに来る広大な公園

となっている。これはその警官の説明である。
歴史とは面白いものだ。人間の営みは脈々と続いてきた。
過去があって今があり、未来に繋がっていく。
未来のために歴史から学ぶことはけして少なくない。
「さきたま古墳群を世界遺産に!」という垂れ幕のかかった二子山古墳
を眺めていると、先ほどの白合羽の警官が自転車で追いかけてきた。

 「将軍塚古墳の入り口はぐるっと回って、あっちですよ!」

わざわざ親切にありがとう。

こんなふうに古墳を歩き回り、広大な古墳公園の一角にある「遺跡の博

物館」に足を向ける。

その博物館には、冒頭の国宝となっている「金錯銘(きんさくめい)鉄剣」

が展示されている。ほかにも史料がいろいろありそうだ。
さて、大和政権をしのぐ日本王国の謎は解けるか。

 

長くなりそうなので、次回に続く。

 

 




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痛恨のクラリネット 

08.5店内2 007


「吹奏楽がやりたい少年」はその後一人でやってきて、譜面台を買っていった。
どうやら吹奏楽部には入った様子だが、アルトサックスはまだ買ってもらってないようだ。
少年は今はとりあえず学校の楽器を使っていると、言った。
初心者のスタートとしてはそれもいいだろう。

楽器の話を書いていて、思い出したくないことを思い出してしまった。
人生、失敗談はいっぱいあるが、楽器にまつわる痛恨話だ。


当時の吹奏楽部員はすべて学校の楽器を使った。先輩たちは楽器の手入れも後輩に厳しく教えた。
クラリネットの場合一年生はベークライト製の日管(ヤマハの管楽器部門の前身)だった。
そして2年生になり腕が上がってくると楽器もいいものがあてがわれる。

3年生になってはじめてフランス製のクランポンを手にした。材質は黒檀だ。
クランポンは憧れのブランドだった。初めて吹く時はどきどきした。
社会も高度成長期が始まった頃だ。学校も実績のある部活には予算を割いたようだ。

高校に入る頃になると、回りにポツポツと自分の楽器を買ってもらう者が出てきたが、あくまで少数だ。
私は高校に合格した祝いにクラリネットを買ってもらうことになった。
しかし一流ブランドのクランポンが欲しいとは言えなかった。高いのだ。

親は知り合いを通じてどこかの楽器屋の営業マンみたいな人を家に呼んだ。
ケースに入ったクラリネットをさして「これでどう?」と母親がいった。
有無もなかった。買ってもらえるだけで嬉しいのだから。

営業マンみたいな人が帰ってから、まじまじと眺めた。
シュライバーというドイツ製だった。聞いたこともないブランドだった。
母は何がいいのかはわからない。ただ、一生懸命買ってくれた、と思う。

高校時代は軟式テニスなどをして、OB会の演奏会に時々出る程度で熱心にやらなかった。
他に興味のあることがいっぱいできてきたためだが、だんだん吹奏楽とは縁遠くなっていった。

痛恨の日がやってきた。
大学時代のある日、懐かしい旧友が訪れてくれた。これは嬉しいことだ。
心ばかりの歓待をしたいが、親から仕送りのお金は底をついていた。バイトの給料日もまだだ。
私は困った。そして魔がさした。
大事に帯同してきたシュライバーを質屋に持ち込んだ。あろうことか、その後引き取りを忘れてしまったのだ。

私のクラリネットは消えた。たった一晩の飲み代のために。
若気のいたりである。今でも心が痛む。

そして時は流れ、自分の娘が中学生になった時、勧めもしなかったのに吹奏楽部に入った。
しかも、クラリネットを吹くことになった。偶然である。

私の娘の頃はすでに「マイ楽器」の時代に入っていて、学校でもほとんどの部員が親に買って
もらった自分の楽器をもっていた。それだけ社会が豊かになったということだろう、とりあえず。
私は娘にクラリネットならクランポンと吹聴した手前、クランポンを買い与えることになった。

さらに時は、流れに流れた。
クラリネットを買ってくれた母も、愚息の質屋事件のことは知らずに2年前他界した。
私はお墓の前で手を合わせ告白した。おばあさん(母のこと)、ごめんなさい。

わが娘も今では人の妻となった。
娘よ、あのクランポンはまだあるだろうな。(自分のことは棚にあげて・・・)
しかし、きかないことにする。



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